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岡田武史

<日本サッカー岡田武史監督>

2007年12月7日

岡田武史略歴

1956年8月25日大阪生まれ。
天王寺高校、早稲田大学、古河電工で選手として活躍する。日本代表でロサンゼルス五輪予選も出場した。
1990年に引退。
1993年ジェフ市原でコーチ
1995年日本代表コーチとなる。
1997年W杯フランス大会予選中、10月に更迭された加茂周監督の後任として代表監督に就任し、日本初のW杯出場、大会後に退任。
1999年からJ2札幌の監督を務め、2000年にJ2優勝してJ1に昇格。
20003年に横浜M監督に就任し、同年と20004年でJ1連覇を達成する。
20006年に監督辞任。
2007年8月日本エンタープライズの社外取締役就任。
20007年11月にサッカー日本代表のイビチャ・オシム前監督が急性脳梗塞で倒れ、後任として9年ぶりに復帰。

ジョホールバルの歓喜

サッカー日本代表の試合中で最も印象的な試合は?
“ドーハの悲劇”として語り継がれているイラク戦、日韓W杯において日本史上初勝利を果たしたロシア戦などは挙げる人が多そうですが、“ジョホールバルの歓喜”とのちに呼ばれるフランスW杯出場をかけたイラン戦も印象的です。
岡田武史体制のこのときの日本代表の試合を簡単に振り返ってみると、日本は前半39分、中山がゴールを決め大一番で先制点を奪うことに成功。しかし、後半に入り立て続けに失点し、瞬く間に逆転を許す。
ここで岡田監督は交代のカードを切り、城、呂比須を投入。この交代が当たり、後半31分に城のヘッドが決まり、再び試合は振り出しに。
同点で延長戦に入ると、岡田は再び交代のカードを切り、野人・岡野を投入。まさしく試合は死闘の様相を呈しました。
結果的にこの采配もズバリとはまり、延長後半終了間際に中田が放ったシュートのこぼれ球に詰めた岡野が、スライディングしながらゴールに押し込み劇的な勝利。
日本が初のW杯への切符を手に入れた記念すべき瞬間でした。
このときのゴールまでの一連の流れ、そして、岡田監督が両手を突き上げながら猛然とピッチにダッシュしていく姿は、10年近い月日が経過した今でも鮮明に思い出されます。
私は「岡田武史」という人物について冷静な理論家という印象をもっていたのであの喜びようには驚きました。

学生時代の経歴

初めからサッカーをやっていたわけではありません。
帝塚山学院小時代は少年野球に明け暮れており、また、南海ホークスの応援に大阪球場へ通うという野球少年でした。
サッカーに目覚めたのは中学に進学してから。
部活動を決める際、野球部を見て上下関係が厳しいと感じ、自分には向いてないと思い野球は断念。そしてメキシコオリンピックでのサッカー日本代表の活躍を見てサッカーを始め、熱中していきます。
青年時代は、早稲田大学が登場してくる五木寛之の『青春の門』などの小説に影響を受け、早稲田大学への入学を目指しました。
中学から始めたサッカーはメキメキと実力を付けていき、天王寺高校3年時には高校生では3名だけとなるユース代表に抜擢され、クウェートで開催されたAFCユース選手権に出場。そして、1浪後早稲田大学政経学部に合格を果たします。
大学生活の当初はサッカー同好会の稲穂キッカーズに入り、本格的な競技サッカーからは離れていたそうです。
早慶戦の少し前になってサッカー協会の人に説得され、早稲田大学ア式蹴球部に入ることを決断し、以後DFとして活躍しました。
また、在学時に学生結婚をしています。

古河電気工業サッカー部時代

現役選手時代はどんな選手だったんでしょう?
大学までサッカー部に所属していた岡田さんですが、進路決定の際、サッカー部がある実業団ではなく当初はマスコミへの就職を希望していたそうです。
ですがそれは叶わず、1980年の大学卒業時には古河電気工業サッカー部に入ることとなります。
このサッカー部は現在のジェフユナイテッド千葉の前身となるチームです。
ポジションはディフェンダー。頭脳的なディフェンスを武器に活躍をみせ、清雲栄純監督の下、86年のアジアクラブ選手権での優勝にも大いに貢献しました。
また、1990年にドイツの名門クラブであるバイエルンミュンヘンとの試合にも出場し、チームは1対2で善戦するも敗れましたが活躍を果たしたそうです。
当時34歳だった彼の飽くなき向上心は強く、まだまだ現役生活を続けるつもりでした。
ですが、この試合でのプレーによって、海外クラブの選手との埋めることのできない差を身をもって実感することとなり、引退を決意。
また、このときが日本人が海外の強豪クラブを相手にどうすれば勝てるようになるのだろうか、という指導者への道を模索するキッカケとなったようです。
結局、この古河電気工業では1980〜1990年までの11年間プレーをします。

日本代表選手時代

現在のJ1ジェフユナイテッド千葉の前身となる古川電気工業でプレーしていた時期、岡田さんが日本代表選手として出場したことがあります。
これは1982年に、インドのニューデリーでのアジア大会に出場した際の話なのですが、最初発表された代表メンバーには岡田さんの名がありませんでした。
しかし、当時、代表のキャプテンを務めていた前田秀樹さんが負傷によって参加を辞退したことで岡田さんが追加招集されたのです。
背番号は前田さんがつけていた9をそのまま背負うこととなりました。
日本は1次リーグにおいて韓国、イランというアジアの強豪国と相対する厳しいグループに入ってしまいました。
しかし、初戦のイラン戦では攻め手がほとんどといっていいほどなかったにも関わらず、終盤の木村和司さんによるゴールで1対0で勝利をおさめます。ただ、このイラン戦での岡田さんの出場はありません。
最終戦の韓国戦の試合前の段階で、日本が2勝で首位、韓国が1勝1敗。しかし、得失点差により、日本が自力での1次リーグ突破を確保するためには引分け以上が必要。
その大一番の韓国戦で、日本はFWの尾崎加寿夫さんに代えて、守備的な中盤の選手として岡田さんを大会初起用。
日本は前半に1失点を喫するも、後半13分に岡田さんのクロスを原博実さんが合わせて、1対1の同点とします。
後半30分を経過し、勝つ以外には1次リーグ突破の目がない韓国に攻め込まれますが、日本は辛抱強く守る。
そして、一瞬のカウンターから風間八宏さんが左サイドのゴールライン際からグラウンダーのボールを蹴り、そこに攻め上がった岡田さんのダイレクトシュートで逆転に成功。
結局そのまま2?1で逃げ切り、日本は首位で1次リーグ突破を決めました。
こうして岡田さんは守備を期待されての起用とはいえ、2ゴールに絡む活躍。日本の1次リーグ突破に大いに貢献したのです。

ドイツ留学時代

古河電工サッカー部代表チームをやめてからドイツへのコーチ留学を行った経験があるのです。
ある日、岡田氏は会社に頼んで、留学をさせてくれといいいます。させてくれないのだったら、会社を辞めてでもドイツへ行く!と、上司を半分脅すような感じで行ったんだとか。ドイツへ渡るとそれはそれは結構な苦労があったみたいです。
まず、行ったときから用意されているはずの家も車も何故か何にもなくて、仕方がないので安いホテルを借り、新聞広告で貸家を探して電話。
でもドイツ語も当時はよくわからないので直接行って、断られて、別のところに行って、また断れての繰り返しだったそうですね。
実際のところサッカーはあまりやっていなかった、と当時を振り返っています。
ドイツ留学後は、日本でまた仕事に戻ろうと考えていたそうです。
ところが、実際に日本に戻ってみると、Jリーグが開幕していたのです。
これには岡田氏も驚きを隠せなかったようですが、無理もありません。
なにしろ日本リーグ時代の閑散としたグラウンドしか知らない岡田氏にとって、何万人もの観衆が大騒ぎしている光景を目の当たりにして、一体どうなっているんだ!?と思うのは当然ですよね。
まるで浦島太郎状態だった、と振り返っていたそうです。

横浜Fマリノス監督時代

岡田武史氏はJリーグの名門・横浜Fマリノスの監督も3年半務めた経験があります。
2003年に前年まで指揮をとっていたコンサドーレ札幌からマリノスの新監督に就任。
そして、久保竜彦などを補強して臨んだ岡田体制1年目から1stステージを制し、2ndステージも最終節での劇的な逆転で優勝を成し遂げ、両ステージ制覇によって年間王者に輝きました。
コンサドーレ時代の1年目は振いませんでしたが、今度はしっかり結果を残しました。
岡田マリノスは翌2004年も、安定した強さを発揮することとなります。新戦力として日韓W杯でも活躍した韓国のエースストライカー安貞桓(アン・ジョンファン)などを補強し、前年の2ステージに続いてこの年の1stステージでも優勝。3ステージ連続での優勝を果たします。
2ndステージこそ、浦和レッズに優勝を譲るものの、チャンピオンシップにおいて1勝1敗で迎えたPK戦の末勝利し、J1の連覇を果たす。
岡田武史体制で常勝マリノス誕生か?
そう思ったのも束の間、、翌2005年は、アジアチャンピオンズリーグでのグループステージ敗退を初め、Jリーグでも主力の負傷などが響き、年間9位に終わってしまいます。
翌2006年も開幕4連勝で首位に立つものの、無敗同士の直接対決となった浦和レッズ戦での敗戦以降、15試合でわずか2勝と低迷し、成績不振により岡田監督が辞任する事態に。
岡田監督としてもここまで勝てなくなったのは代表監督時以来なのではないでしょうか。

監督業とは

岡田武史氏は日本代表監督を初め、札幌や横浜FMなどいくつかのチームの監督を務めてきました。そんな岡田武史は「監督業」をどう考えているのでしょうか。
岡田氏はかつて名古屋グランパスの監督も務めたアーセン・ベンゲル氏にこういわれたことがあるといいます。
「サッカーの監督とは、1%の成功した者に対し99%の失敗した者が羨むような仕事だ」
また、「サッカーの監督とは、阿片のようなものだ」
つまり、一度やってみると中毒になっていまうというわけですね。
その点、最初から代表監督という「最高の阿片」を味わうこととなった岡田氏は、あの体中がゾクゾクする興奮や、緊張感というものは、日常生活では味わえないといいます。
また、日本代表監督を辞めた後は、静かに暮らしたいと考えていたそうなのですが、ダメだったとか。
それもこれもサッカーの監督という阿片の味を忘れられないからに他ならないのでしょう。
そして、監督の仕事とは「何」か?という問いには、合理的にどこまで最善の試合を組立てれるか、ということじゃないかと答えています。
様々なデータを頭にインプットし、その要素を分析し、どのようなチームを作り、どのような試合内容に持っていくのか、ということの最善解を合理的に導き出していくわけです。
そして、それに基づいて戦術を練り、選手起用や指示をする、と。
また、理想的な監督についてと問われ、次のようにも語っています。
選手は自分がうまくなりたいと思わないとうまくなれないが、指導者の場合、自分が名将になりたいというのは大抵だめで、うまくいかない。自分の監督像というのは周りが見るもので、このチームを、選手をどうしようと考えた時に、自然と出る。

特任教授としての活動

以前は大学での講義も行っていました。 北海道教育大学には平成18年度から行っている特任教授制度というものがあって、著名スポーツ指導者らを講師として招聘しキャンパスで講義を実施しているのだそうです。
その際に当時横浜Fマリノスの監督をしていた岡田武史さんも岩見沢キャンパスで講義を行いました。
当日は、後志郡赤井川村にあるキロロリゾートで合宿を行っていたマリノスと岩見沢キャンパスサッカー部の練習試合の後、岩見沢キャンパスに移動して講義を行う。
講義には、岩見沢キャンパススポーツ教育課程の学生のほか、サッカー部に在籍している部員や、市内のサッカー関係者など約200名が出席したようです。
また北海道教育大学の他キャンパスにもテレビ会議システムで同時中継され、講義の様子が配信されたということです。
講義において岡田さんは、理想のチーム作りに関して熱っぽく語り、また、選手に必要な意識については「楽しむこと」「お互いの存在を認め合うこと」「自分で考えて責任を持って判断すること」などが非常に重要であると説いたそうです。

選手育成論

「日本人の子供の特徴として、ボールコントロールはとても上手く、これに関しては世界でもトップレベル。しかし、それをいつどのように使うのかが分かっていない」。
日本人は学ぶことは優れているが、自分で判断するようなことが苦手というわけです。
これは岡田武史氏が横浜Fマリノスの監督をしていて、2003年、2004年とマリノスを優勝させて臨んだ2005年、2006年シーズンのこと。
岡田氏は選手の岡田氏の戦術への信頼から、それがかえって選手の判断力を奪うことになってしまったという反省から、選手自身が判断していく戦術への移行を試みたのです。
しかし良い結果は出せず、結局、2006年シーズンの途中で、監督を辞任することになってしまったのです。
当時、岡田氏は盛んに、「今季は俺は何も言わない」というようなことを繰り返して言っていたそうですが、すると選手の方は「どうすればいいのか分からない」と戸惑っていたのだとか。
岡田氏はその上で、Jリーグクラブの選手育成方法を批判します。ユースの選手は練習漬けで、これでは友達とは遊べない、家族と一緒に食事もできない。人間として成長する一番重要な時期なのにこれは絶対によくない、という考えをもっているようです。

日本代表監督

イビチャ・オシム監督の入院に伴って岡田武史氏が日本代表監督に復帰されました。
現状の日本代表及び選手の状態をある程度把握している必要があること、W杯の予選まで間がないことを考えると、日本代表監督の岡田武史就任はまっとうな人選だったと思われます。
本当に急遽の監督交代という感じですから、そんな状況下でいきなり監督経験の乏しい人物を起用したところで結果は火をみるよりも明らかだと思います。
その点で岡田氏は代表監督経験があり、また、J2・J1のクラブを指揮、複数クラブで指揮、所属クラブでタイトルを獲得、と経験・実績ともに充分です。日本人監督で彼より経験・実績面で上回っている人物はいないのではないでしょうか。しいて言えばガンバ大阪の西野氏くらいでしょうか。
そういえば、昨年8月に横浜Fマリノスの監督を辞任してから今回代表監督に復帰するまで空白期間がありますが、その間は何をしていたのでしょうかね?
実は辞任してから次に何をしようかを具体的に考えていなかったらしく、8月から年内の間は、まったく働かなかったそうです。
すると奥さんの機嫌が次第に悪くなってきたそうで、冷蔵庫の中のビールがそれまでエビスだったのが、少し安いのに変わり、今度は娘さんと「発泡酒にするか」などと話したり。
そして、これによって「これは働かなくてはイカン!」となったらしく、「元監督岡田武史」として講演活動を始めることに。
その後、以前から深い関心があったという環境問題だとか難民関係にも積極的に関わりを持っていったそうです。
難民関係では、難民フットサル、カンボジアにおける地雷除去フットサルの支援、電動車椅子サッカーのW杯の支援をしたりしていたみたいですね。
そんなサッカーの指導とは別のフィールドで活動を続けていた岡田氏ですが、不思議とサッカーが恋しくなったりはしなかったとのこと。
サッカーから距離を置いてみると、経済人や芸術家など、それまでとは違う人たちとの出会いが実現されるようになって、とても充実したものを感じていたそうです。ですが、サッカー界にはいつかまた戻る予感はしていたそうです。結果的にはその通りになりました。

岡田武史体制W杯までのテストマッチ

岡田武史監督は日本代表の試合を15試合指揮しましたが、イランとの死闘の末W杯初出場を決めた試合以降、岡田武史体制の日本は苦戦が続きました。
あのジョホールバルの歓喜以降初めての代表戦となる、1998年2月15日のオーストラリアとの国際親善試合、3月1日のダイナスティ杯韓国戦こそ3対0、2対1で勝利します。
しかしダイナスティ杯の中国戦で0対2で敗北を喫して以降、日本はなかなか勝てなくなってしまいます。
4月1日に行われた韓国とのW杯共催記念試合でも1対2で敗戦。
しかも、内容も良いとは言えず、本戦に向けて暗雲が立ち込めることになります。
5月にパラグアイ、チェコを招いて行われたキリンカップでも岡田JAPANの苦戦は続きました。
ホームにも関わらずパラグアイに先制を許し、終盤に相馬直樹のゴールで追いつく。
チェコ戦もなかなかゴールを奪うことが出来ず、守備陣は一定の仕事はするも、0対0のドロー。
結果、決定力不足という課題を抱えたままフランスに乗むこととなってしまいました。
6月3日にローザンヌで行われたユーゴスラビアとのW杯前最後のテストマッチでもこの課題を払拭することはできませんでした。相手は強豪とはいえ、0対1で完封されたというのは本戦は相当苦しい戦いになることを予感させました。
W杯本戦でも3戦全敗でGL敗退。
アジアと世界との差をまざまざと痛感させられた数ヶ月でした。

W杯までの道

岡田武史監督が指揮をとった日本代表の試合は15試合あります。
その中でW杯出場までには5試合の指揮をとりました。
加茂監督が更迭され、日本代表監督に就任した岡田氏が最初に指揮をとったのが1997年10月11日のW杯アジア最終予選・ウズベキスタン戦。
最終予選の前半4戦で1勝1敗2分けと苦戦しながら臨んだこの試合は、ウズベキスタンに先制を許すも、試合終了2分前にかろうじて同点に追いつき、最悪の事態は免れます。
その次のUAE戦はフォーメーションを変更して臨むもまたもや1対1のドロー。
しかし、次の韓国戦では日本にも運が味方をしてくれます。
韓国はすでにW杯出場をこの試合を待たずに決めていたためアウェーとはいえ、日韓戦独特の緊迫感というものはそれほどなかったのです。韓国選手はいつものような日本戦で見せるガッツは見る影もなく、日本は2対0で勝利。
そしてこれで勢いに乗ったのか、3位決定戦進出がかかるカザフスタン戦にも5対1で圧勝。
イランとのW杯出場権をかけた3位決定戦へと駒を進めることとなります。
そして、日本サッカー史に永遠に語り継がれるであろうイラン戦。
日本は先制をするも、イランに逆転され、苦しい展開。
しかしW杯初出場へ意地をみせる日本は同点に追いつき、そして未だ記憶に新しい途中起用・岡野のゴールで悲願のW杯を決めました。
岡田武史体制から5試合目。壮絶な試合でした。

企業の社外取締役就任

招聘したのは携帯電話向けのコンテンツ配信会社である日本エンタープライズで、主に着うたやゲーム・動画のコンテンツ制作・配信しており、また、クライアントに大手企業が多いのが特徴です。
特に現在はKDDIとの結び付きがかなり強く、好調のKDDIに乗っかっていく形で一層伸びていくことが予想されているそうです。
なんでも、岡田氏と日本エンタープライズ植田勝典社長とは旧知の間柄だそうで、植田社長から直々「協力して下さい」と申し出を受け、岡田氏も快諾したといいます。
8月の株主総会および取締役会において正式に承認される予定なんだとか。
起用の意図は「業績が拡大する中、課題である組織力強化と人材育成の為に、岡田武史氏のサッカーの指導者生活で培った豊富な経験、幅広い見識を生かしてもらいたい」という狙いからだそうですね。
確かに、サッカーも組織論的な面があるので、企業組織強化に生かせるのではないかという発想は理解できます。興味深いチャレンジではありますね。
もちろん岡田氏の知名度を生かしたPR効果というのも大きいものがあるでしょうね。
そういえば中田英寿氏が東ハト執行役員に就任して随分話題になったりしたことを思い出しました。
なにはともあれ岡田氏の経営者としての手腕というものにも注目したいです。

早稲田大学の堀江教授

岡田武史氏にとって人生において大きな刺激や影響を受けた人物はいるのだろうか?と気になって調べてみたら、一人いるみたいです。
母校・早稲田大学の政経学部の先生で、同時にサッカー部の部長を務めていた堀江教授という方だそうですね。
岡田氏は高校3年生のとき、早稲田を受験するもものの見事に落ちました。
そのとき、当時サッカー部の部長だった政経の堀江先生から手紙が届いたそうです。
「君は合格最低点の半分しかとれていません。これでは一年間でどれだけ勉強をしようが無理ですから、来年は体育を受けなさい」
手紙にはそのようなことが書かれていたそうです。
ただ、それを読んだ途端、岡田氏はもう絶対体育は受けない、と思ったんだそうです。
そして岡田氏はその精神を胸に必死で勉強し、見事早稲田の政経に合格することになります。
岡田氏は「早稲田に入って良かったことは?」と問われた際、政経の堀江教授との出会いを挙げています。
政経の教授であり、サッカー部の部長でもあって、四年時には堀江教授のゼミも取っていた。
また卒業時、古河電工への入社が決まった際も、卒業直前になって、試験の点数が足りなくて留年の危機に陥ったことがあるのだそうです。そのときも堀江教授の尽力によって、どうにか卒業にこぎつけたのだとか。
堀江先生については、「学問的というか堀江先生の生き方のようなものに影響を受けた」とも話しています

「外れるのはカズ」

大会登録選手を発表する際のセリフ「外れるのはカズ」。
カズは日本サッカーで最も人気のある選手であり、そのカズを直前で登録メンバーから外す。この選考は議論を呼びました。
岡田氏はのちに雑誌のインタビューなどでそれについて語っていますが、やはり相当苦渋の決断であったようです。
岡田監督自身は発表後は合宿で日本にはいなかったので日本国内の様子を直接見るということはありませんでした。
ですが、家族は実際キツかったみたいだった、と漏らしています。
岡田監督もカズを外すことによってこうなるということは、発表前から予想していた。それでもカズを外したのは、日本代表を勝たせる為に監督としてやるべきことはなんだろうと考えたとき、あの結論に達したわけなのだそうです。
岡田監督自身、カズのことを尊敬していたし、大好きだったと語っており、コーチから反対もあったようですが、「俺が決める」と最後は自分を信じたようですね。
あの決断が正しかったのかそうでないのかはわかりませんが、相当大きな決断であったことは間違いないでしょう。

知られざる秘話

これは岡田武史氏が加茂周監督の更迭をうけて急遽監督に抜擢された際、その心境を岡田は翌日のインタビューにて“ホテルがスイートルームになっただけ”と発言。
そんな裏でこんなエピソードがあったのです。
岡田から日本代表のアシスタントコーチ就任の依頼を受けた小野剛はそれを快諾。
そしてこのとき岡田は逆に「そんなに簡単に受けていいの?例え話じゃないんだぞ。もし失敗してしまったら日本に本当にいられなくなるかもしれないんだぞ!」と叱り飛ばしたそうです。
マスコミを交わしながら、強烈に押し寄せてくるプレッシャーと戦うことになるというその覚悟の一片を見て取れますね。
また、岡田はあの“ジョホールバルの歓喜”の前夜にも、日本にいる家族に電話をかけ、「もし負けたら日本では住めなくなるから外国に移住しよう」という内容の会話を夫人としたというのだから、相当な覚悟だったようです。
そして、自分自身のみならず家族にまでも大きなプレッシャーが国民によって加えられたことにより「代表監督は外国人に限る」とことあるごとに発言しています。
ですが、同時に日本人の良さを一番引き出せるのは日本人、という内容の発言も行っています。

コンサドーレ札幌監督時代

コンサドーレは1998年にJ2降格を余儀なくされ、その際クラブが目指した「1年でのJ1復帰」の切り札として招聘したのが、岡田武史元日本代表監督でした。
日本を初のW杯出場に導き、実績と知名度を兼ね備えた監督としてその手腕への期待は、やはりかなり大きいものがあったようです。
しかし、Jリーグクラブでの監督経験が皆無だったことが災いしたのかなかなかチームは軌道に乗ることができません。
また、外国人選手の獲得に失敗したことも響き、結局この年は昇格争いに絡むことすらできず、5位で終了。
さらにJ2降格によるスポンサー収入の減収もあって、累積赤字が30億円を突破、経営状態も泥沼となってしまいました。
就任2年目はクラブは徹底した緊縮財政を断行。
同時に自ら選手獲得に動き、数名の選手を獲得したほか、強力ブラジル人FW・エメルソンが加入。
また、理想を追い求めず、J2を戦う為の戦術の確立に着手し、それを実行できる選手を揃えたこの年のチームは、31勝4敗5分でJ2を制覇。
さらには、好成績によって観客動員数も増加し、初めて単年度黒字を達成。何もかもが良い方向に進んだ年でした。
再びJ1に戻ってきた岡田体制3年目は、この年のちに得点王に輝くことになるウィルの活躍もあって、一時2位にまで浮上するなど大躍進をみせます。
その後、若干勢いは落ちるも11位でシーズンを終え、クラブ史上初のJ1残留を成し遂げました。

岡田武史監督率いるW杯

W杯ではアルゼンチン、ジャマイカ、クロアチアと同組。
初戦のアルゼンチンは苦戦が予想されました。相手はW杯を2度制している強豪中の強豪です。
試合はGK川口の好セーブ連発などで耐えます。
しかし防戦一方という感は否めず、一瞬の隙を突かれてバティストゥータに決められ、そのままこれといった反撃もできないままタイムアップ。
日本のW杯初試合は0対1で敗戦となってしまいました。
スコア以上に力の差を感じた試合だったような気がします。
2戦目の相手はクロアチアでしたが、この試合は前半日本がやや押し気味で進めます。
しかし、またもや後半にスーケルに1点を奪われ、攻撃的な選手を投入して反撃を試みるも、0対1で敗戦。
3戦目はジャマイカ。
すでにグループリーグ敗退が決まっている両国でしたが、なんとか1勝して母国に帰りたいところです。
「ジャマイカには勝てるんじゃないか」日本の期待が盛り上がりましたが、この試合も中山雅史のW杯日本史上初ゴールで1点を入れるも、1対2で敗戦。
結局、岡田武史体制の日本にとって初めてのW杯は、3戦全敗という結果になってしまいました。W杯の壁の高さを感じた3試合でした。

指導理念と名監督の条件

岡田武史の指導者としての理念をインタビューされた際に「信賞必罰と公平」に尽きると答えています。
良いときはほめて悪いときは叱る。そしてそれを誰に対してもフェアに行うこと。
これは代表を預かったときも同じだそうです。
「どんな選手であっても、監督が自分のことをどう考えているかは実に敏感に察知している」。
特に、人生がかかるといっても過言ではない代表などだと、そういった状況では、監督自身が自分をさらけだしていって正面からぶつかっていくしかない、そうしたとしても、チーム全員から監督が大好きで深く信頼を受けるということはあるわけないし、選手同士にしたって、どうしても合わない者がいる。
そかし、どのような場合でもいつも岡田氏が言うのは、グラウンドに立ったときはプロの仕事をしろ、ということ。
「仕事の場において個人の利己的な感情を出すのは、完全に失格です」
名監督の条件とは?
実際そのようなことを問われた際、挙げた名監督像です。
まず、名監督と呼ばれている人たちに共通することは、全て最悪のケースを考えているということ。
そして、最悪のケースが起きたときにではどうするか、を考えるのだ、と。やはり何事もよく考えて行動するということですね。
また、考えるのはいいのだけど、最後まで考え続けてしまって悩む人もダメなのだそうです。
あらゆる最悪の場面を考え切り、なおかつどこかでその考えを自分の頭の中から振り切って、「よし、しょうがない。これで行くぞ」と思い切る。そのような思考力と決断力のバランスの良い人が名監督であると。

インタビュー抜粋

いくつか紹介しましょう。 1998年に代表監督を務める際の喜びについて聞かれると「代表監督になったおかげで、王さん、長嶋さん、野村さんと対談もさせていただきました。あとはキョンキョンと会うだけだ。」
インタビューの最後に「ファンへのメッセージを」と問われると、「ファンはいないなあ・・・」
横浜Fマリノスの監督時代、GK榎本達也に長女が誕生した試合で、「勝ったら武子って名前付けていいよ。」
Jリーグアウォーズにおいて優勝監督賞を受賞した際には「ようやくロレックスを持つことができました。」
Jリーグアウォーズにおいて優勝監督賞に続いて最優秀監督賞も受賞した際には「ロレックスが2つになりました。」
マリノスの監督時代、47歳の誕生日にケガ人が続出することについて、嘆きながら「プレゼント?ケガ人が戻ってくることですね。」
2002年に監督として現場復帰する際に「これからちょっとダイエットでもしようかな。この仕事って見た目勝負だよ?

人物像

性格に関しては決して派手ではないそうです。 「俺のことをよく知っている人は、顔の造り同様に性格も派手ではないことを知ってます」
しかし、逆境に立たされた場合などは「よし!やってやるぞ!」と一度ドン底まで落とされてしまうと、もうこれしかない!と逆に開き直れるそうですね。
叩かれないとダメなのかもとさえ言っていたそうです。
「人間は土壇場になれば強くなる。本当に人間って強いものですよ。でも大体は皆、その前に諦める。でも諦めないで頑張っていたら、人間には底力ってあるものです。」
この指揮官の性格があのジョホールバルの歓喜を生んだのかもしれませんね。
また、体育会系のやり方については、先輩を敬う気持ちなどのついては一定の理解を示しています。
しかし、そういうものを強要されるのは嫌という考えで、 それも暴力的だとか不合理なやり方によって強制されることは、性に合わないそうです。
彼は元々小学校のときは野球少年だったそうですが、そういう不合理なやり方が蔓延していた中学の野球部を見て、サッカーを始めたというエピソードからもそれがよく分かりますね。

メディア

昨今、メディアの取材の際のモラルだとかがいろいろ言われていますが、岡田武史さんもメディアの取材姿勢などに対していろいろ述べています。
岡田武史さんは、メディアには2種類あるといっています。
サッカーなり岡田さん個人なり、日本代表なりに何かしらの愛情を持って来る人と、もうひとつは奇妙に意気込みのみが強い人。
大きく分けるとこの2つに分類されるのだそうです。
批判したって何を書いたってそれは別にいいけど、ただ、後者の仕事にのみ燃えている人がインタビューをすると、あまりにも質問の内容が馬鹿馬鹿しくて答える気がしなくなると嘆いています。
「できれば分けたくなるのだけど、そういうわけにもいかない」というところに監督の大変さが読み取れますね。
W杯におけるメディアの姿勢ついて。
「自分自身に対するプレッシャーならまだいいけど、若い選手が自分が発言したことの反響だとか、行動への批判だとか、そういうプレッシャーに耐えるのは容易ではない」。
常にメディアの一方通行で、自分たちが反論する場がないことによる選手が受けるストレスを指摘しています。

環境問題

岡田武史氏は、日本サッカー協会・特任理事として環境プロジェクトに取り組みました。
岡田武史氏が、環境問題に興味を持ったのは意外にもかなり前で学生時代にまでさかのぼります。
本を読むのが好きで、ある時、『成長の限界』という環境の破壊や資源の枯渇を警告するリポートを読んだことが環境問題に興味を持ち始めたキッカケだそうです。
それからは環境関連の本を沢山読むようになり、米政府の21世紀地球環境問題予測リポートである『西暦2000年の地球』という本に衝撃を受けたのだとか。
そして「これは大変なことになるな。自分に何ができるのだろう?」と考えていたら、あるNPOに出会い、環境問題に関わるようになった。
02年に監督業を休んでいた際には、ヨハネスブルクで開催された環境サミットにも参加し、多くのNPOのトップと会たようです。
前述のサッカーを通じた環境プロジェクトでの活動はどのようなものなのでしょうか。
具体的にはスタジアムでは飲み物類の販売のときには、何度も使用できるリユースカップの導入しているみたいです。
その他にも、チケットの裏に環境クイズを印刷し、ハーフタイム中にオーロラビジョンで正解を伝える」「生分解性プラスチックの食器を使用する」等、様々なアイデアを持っているのだとか。
また、このプロジェクトを成功させるためには、チケット収入からの寄付によって植樹できる面積をフィールドなどに映すといった、活動を「可視化」することが大事だと考えていまようですね。
岡田さんの環境問題への本気度が伺えます。
環境活動に関わるようになってからというもの車に乗る回数が激減したそうで。
出かける際は駅まで歩き、電車で移動することを心掛ける。
家族の電気の付けっぱなしにもかなりうるさい。
また、もともと物は長く使う派で、買い換えるよりは大事に大事にできるだけ長く使って、決して捨てないようにするよう心掛けているとのこと。
奥さんもその影響からかマイバックを使うようになうようになったらしいです。
「マイ箸」も普段から持ち歩いているそうで、会食の時には失礼ではないかと気にしたりしておられるようです。
また、お酒を飲むと酔いで飲み屋に忘れてきてしまい、娘さんに「逆に環境に悪い!」と怒られることもしばしばだとか。
以前は生ゴミのコンポストも行っていたそうですが、生ゴミを分けることが大変でこれはやめてしまったみたいです。
このように完璧にやろうとすると負担が結構大きいので、一人ひとりがまずはできることからやっていくこと大切だと岡田氏は説いています。

著書

指揮官 岡田武史―アルマトイ、フランス、そして札幌
この本が発売されたのは岡田氏がコンサドーレ札幌の監督として指揮をとっていた頃です。
内容は波乱の道を歩むことになった指導者の胸の内に、朝日新聞のサッカー担当記者が熱く迫っていくというもの。
朝日新聞のスポーツ面に連載されていた「岡田武史の301日」を単行本化したもので、岡田氏へのインタビューと朝日新聞記者である著者の取材の足取り、思いなどを重ね、当時を振り返ったものとなっており、岡田氏の考えや現地の様子などがリアルに伝わってきます。
急遽の代表監督就任の要請に対応し、日本を史上初のワールドカップへと導いたプロセスは感動せざるをえません。
また、その知性だとか家族を大事にする優しさだとか監督としてのみではなく、一人の人間「岡田武史」としての彼の魅力にも惹かれるものがあります。
も表紙のジャージですが、やはり岡田監督はスーツよりもジャージが良く似合うと思います。メガネと一緒にトレードマークみたいなものですね。

勝利のチームメイク
2003年に発売された「勝利のチームメイク」という野球の古田敦也さん、ラグビーの平尾誠二さんとの対談形式の本す。
特殊な対談方式で、古田・平尾、平尾・岡田、岡田・古田と組み合わせを変えて3通りの対談が載っています。
感じることは、3人の頭の良さです。
監督、コーチ、捕手として必要なものとは、と問われた際によく挙げられる「コミュニケーション能力」が、皆さん非常に高いなと。
具体的には、相手から話を引き出すこと、例え話を使って相手に理解させることが非常にうまい。
また、修羅場での経験が豊富ですから説得力もある。
スポーツファンなら、そういえばそんなことあったなーと過去の名シーンを思い出したりしつつ、非常に興味深く読み進めることができると思います。
岡田さんの話では、ある日Jリーグの試合で、ふとこちらをジーッと睨んでいる女性の視線を感じたんだそうです。
後で聞けば、その女性はかつて代表から外された選手の奥さんだったとか。
「監督とは孤独なもの。だから人間的に強くなるよ」と、この本の発売から数年後、ヤクルトスワローズの監督に就任することになる古田さんに話す岡田さん。

蹴球日記 (FOOTBALL Nippon Books)
のちに横浜Fマリノスの監督として現場復帰し、J完全優勝に導くことになる前年の2002年日韓W杯の観戦記です。
彼が目にした記念すべき自国開催のW杯を、彼自身のサッカー観、人生観なども交えつつ語ってくれています。
岡田氏自身が監督を務めたフランスW杯を引き合いに出している箇所もあり、“「ただ一人のW杯代表監督を務めた日本人」が書いた本”といった感じは行間からも読み取れます。
特に随所に織り込まれた昔のエピソードはとても興味深いですね。
例のカズ外しの後、自分では友人だと思っていたジャーナリストに痛烈に批判を受けショックを受けたり、すっかり有名人になってタクシーが金を受け取ってくれなかったり・・・など。
そのほかにも当事者でないと書けないエピソードが随所に隠れているのが面白いです。
もし「岡田武史」という人物自体にはそれほど興味がないという人でも、02W杯を回想するにはよいです。 しかしW杯全試合の観戦記ではありません。ただ、主要な試合はテレビ観戦を含め、ほとんど網羅しているので一般的なサッカーファンには充分楽しめる内容となっていますね。
この時のほとんどの試合は観たので、「こんなことを岡ちゃんは思っていたんだな」と思うことは多々あったし、そういう意味でも面白かったですね。

岡田武史の考えるサッカー
内容自体は、どちらかというと少年向けで、分かりやすくかつ気軽に読むことができます。
しかし、サッカー教本としても内容は濃く書かれていて、非常に好感が持てる内容だと思います。
サッカーはなにも、ベッカムのフリーキックやキラーパス、スーパーゴール、だけではありません。そういう楽しみ方もいいでしょう。ですが、サッカーの技術や戦術であったり、スピードやスペース、さらに選手自身のメンタルなど、試合や練習を含めて、選手は何をすればいいのか?そのような本物のサッカーを知るために参考になる本です。
どうすればサッカーが上手くなれるか?どうすればプレッシャーに打ち勝てるのか?プロフェッショナルとは何なのか?などサッカーに関する様々な考え方のヒントが出ています。
発売されたのは99年。



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